「婦人文芸cafe」はサイト管理者の淘山竜子が婦人文芸会員に様々な話を聞き、随時アップしていこうという企画です。会員の意外な一面を見ることができればいいな、と思います。
こんにちは。第三回の「婦人文芸カフェ」は永田陽子さんにお願いいたしました。 永田さんへのインタビューは私(淘山竜子)が質問をいくつか考え、会員の森実生さんと志津谷元子さんが行いました。森さん、志津谷さんの草稿とお話をもとに進めていきたと思います。 その前に、永田さんのこれまでの出版物を紹介したいと思います。 詩集 「吾亦紅」(淘山注−読み:われもこう)(1974年 雪書房) 「残照」(1982年 野火の会)…第14回結核療養文芸賞を受賞。 「白露」(1988年 野火の会) 「天の大空を飛べ」(1996年 雪書房) 句集 「雪螢」(2000年 北溟社) 長編手記「病床日記」(1995年 雪書房) その他に最近の「婦人文芸」掲載作品を載せた永田陽子作品集「門燈」(2004年)があります。 それではインタビューをどうぞ。 ◇ ◇ ◇ 「私は一キログラムで産まれて、この世に出る一瞬、その瞬間に脳性小児麻痺になり、一筋の細い道程以外に歩むことはなかった。」(随筆「月見草は開いても」より。『門燈』並びに「婦人文芸74号」所収) さわやかな秋の陽が射す日、車椅子に乗った永田陽子さんは柔らかな笑みを湛え、私たちを出迎えてくださいました。永田さんが婦人文芸に入会されたのは、昭和39年のこと。20号から作品を掲載されています。病と共に歩む人生の長い道程において、「婦人文芸」はどのような存在であり続けているのか、お話を伺いました。 質問1:婦人文芸の会に入会された経緯をお話下さい。 永田さん(以下敬称略):婦人文芸主催による「講演会」の小さな新聞記事を母が見つけ、私に勧めたのがきっかけでした。檀一雄や船橋聖一などの作家の講演会に行くうちに、「婦人文芸」を読むようになり、合評会にも出席するようになりました。婦人文芸会員の故川田泰代さんと文通を始め、「何か書いて持っていらっしゃい」と言われ、その頃、北条民雄の「いのちの初夜」を読んで感動し、何か残せたらいいなと思っていましたので、詩を書き、3編持って行ったら、3編とも「婦人文芸」に載せて頂きました。 書くつもりはなかったのですけど……、これでいいのかと思いながら書き続けてきました。 (淘山注−以前は婦人文芸が主催し作家や評論家の先生をお呼びし、お話を伺う講演会が頻繁に開かれていました) 質問2:婦人文芸と関わってきた中で、一番思い出に残っていることは何ですか。 永田:その頃は今よりもっと脳性麻痺がひどかったのですけど、そういうものを全然感じさせない世界でした。婦人文芸の方は皆、私が障害者だということを感じさせないし、私も感じることがなかったのです。 合評会の時、自分が書いた「台所の幻想」という詩について、皆が目の前にいる私には何も聞かず、「作者は子供がいるかいないか」という話を始めました。その時「自分は作者だけれど、作品を書いたら、もう私のものじゃないんだ。作品と自分は離れたものだ」ということが分かり、大変勉強になりました。このことが、その後の私を支えたのです。 質問3:婦人文芸のどんなところが好きですか。 永田:いつも「締め切り」を頂いたことですね(笑)。 皆、べたべたせず、男性的で、作品を通じての交流でした。そういう中に入れてもらったことが、自分の人生にとって一番嬉しかったことです。 婦人文芸があったから、私は生きてこられたと言えます。婦人文芸がなかったら、私は生きてこられたかどうか、とっくに命がなかったかもしれません。 書くことが生きがいでした。一つのことにかじりついていて良かった。 質問4:永田さんはどんな時に作品を作りますか。また、どんなものに詩のイメージを喚起されますか。 永田:洗濯しながら……洗濯機の泡を見ながら(笑)。また、台所に立って、魚を焼きながら、とか。 あんまりのめり込まないで書けるほうですね。 質問5:小説を書き始めたきっかけは? 永田:エッセイだと本当のことを書かなければならないでしょう。でも、小説は事実を書かなくていい。小説を書いて、面白かったですね。家族にも自分の気持ちや考えを理解してもらえました。 自分の力だけでなく、私でない力がどこかに加わって生きてきました。その感謝する対象としてキリスト教に入信しました。 永田さんの強く清らかな心に圧倒されっぱなしの数時間でした。誰のせいにもしない、自分を信じ人を愛するその瞳に、無数の種がつまっているのです。その種から言葉の芽が出、詩や小説の花が咲きつづけていくことを願ってやみません。 |
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