生命
(婦人文芸33号・1970年)
産声はなく わずか一キロの小さい生命 今夜一晩もてばという医師の言葉。 生か 死か その夜 迷ったに違いない 産着に包まれた かすかな呼吸と脈は うごいているのか 止まってしまうのか 外は零下何度という蒙彊の冬 今にも凍りそうな体温 乳を吸う力もない。 朝 ついに夜明けの光を見た 何故そんなに早く生まれたのか 何故そんなにこの世が見たかったのか。 父は 母は そして 二人の医師は 何を望み この命を生かしたのか それを問うことはできない。 生きた 小さい生命についてきたもの 両手にしっかりと握ってきたのは 脳性小児マヒ。 しかし 人の愛と真心 湯タンポとガンガン燃やす ストーブの熱にささえられて 懸命に生きた命。 広い海が見たかったのか 風の吹きつける砂浜に立ちたかったのか。 生をえらんだことを悔いてはいない 今 私はこの自分の命を いとおしく愛している。 (昭和四十五年四月十二日) |
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台所の幻想 (婦人文芸40号・1972年) レモンを洗い 苺を洗い 流れる水の音に 小さい実のいのちがつたわる 熟した甘い香りが 白い壁に波紋を描く 赤い実 黄色い果実は 新しい生命をつたえる 私の夜空には コウノ鳥は飛ばず 魂のかけらもみつけなかった 私は恐ろしかった 生命の誕生が 煤煙 廃液 PCB 病いと 奇形 そして戦争 死 恐怖の地に 幼いいのちを育てたくない 絆を結び 愛をつなぐ 幼い星の光 あいらしい片言 小さい魂は どこかで一本の木になっただろうか 真夏のかわいた道にも 冬の凍てつく雪の中でも 子供は逞しく生きるだろう それとも 砂の中の貝に かさなる雲の上に 地にも 空にも 魂は存在しないのか 窓をうつ風が 空想をたたく 茄子を洗い そら豆を洗い 雨の激しい夕暮れに 空想とともに 波紋を洗い流した (昭和四十七年六月三日) |
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緒 (婦人文芸48号・1978年) 星空のコウノトリ お前は 何故 私をこの列車に乗せたのか シグナルはまだ青 暗い行路の果て 私の終着駅は 何処 (昭和五十二年四月二十二日) |
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海の声 (婦人文芸86号・2009年) あの頃の海は 激しく 荒々しかったのかも知れない けれど あの日の海は 穏やかで 優しく あの日の海は あの日の海は 幼い胸の細波を 鎮め 頼もしく 静かに私を守っていた 昭和十九年の夏、父が出征したため、母は六歳の姉と二歳の妹、そして五歳の私を連れて中国の張家口から引き揚げて来ました。 その船の中で乗客の避難訓練のために救命具を配られた際、私の救命具はなく、座敷の広間にいた乳飲み子を抱いた小母さんに私を預け、妹をおぶった母は小走りに、訓練の甲板に出て行きました。 その時初めて、脳性小児麻痺とは判らなくても、私は姉や妹とは違う者なのだと解ったのです。私が泣き出しそうになった時、窓から見える広々とした海原は鎮まり返り、その水平線の方から 「大丈夫、大丈夫、私が守るから大丈夫……」という声が聞こえて来ました。それは父の声であったのか、それとも神の言葉であったのか。 その後も私は何かあるごとに、あの日の海原を思い出します。 そして、戦死した父は銃で撃たれたのでもなく、征野で倒れたのでもなく、何処かに送られる時に船諸共沈んだのだと思い、そう信じています。 中学の頃、私は母に訊いたことがありました。 「お父さんに召集令状が来た時、何故お父さんだけを行かせたの。私達もみんなで何処かの山奥に逃げて死ねば良かったのに」 「陽子は死にたかったの」 「そうではないけど……」 「勿論それは考えて、幾度も二人で話し合ったの。でも、お父さんはその道を選ばなかったのよ」 私はその日初めて、父は家族を守るためだけに犠牲になったのだと知りました。 今年も、木立の見える老人ホームの窓辺で、山奥に逃げないで良かったと、父の決意を想う八月十五日です。 完 |